『理由』


 この本の前半に次のような文章がある。
 磁石が砂鉄を集めるように、「事件」は多くの人びとを吸い寄せる。爆心地にいる被害者と加害者を除く、周囲の人びとすべて―――それぞれの家族、友人知人、近隣の住人、学校や会社などの同僚、さらには目撃者、警察から聞き込みを受けた人びと、事件現場に出入りしていた集金人、新聞配達、出前持ち―――数え上げれば、ひとつの事件にいかに大勢の人びとが関わっているか、今さらのように驚かされるほどだ。しかし、言うまでもなく、これらのすべての人びとが「事件」から等距離に居るわけではなく、また相互に関わり合いを持っているわけでもない。彼らの多くは「事件」を基点に放射線状に引かれた直線の先に居るのであり、すぐ横の放射線の先に居る別の「関係者」と面識がまったくない場合も多い。

 1996年から朝日新聞に連載された新聞小説直木賞受賞作、宮部みゆきの『理由』を読んだ。大雨の夜、東京都荒川区の25階建て高級マンションの20階にある一室で起こった殺人事件。そこに住む夫婦と息子と車椅子の老母が死亡した。早々に駆けつけた警察の丹念な捜査で少しずつ情報が集まってくるのだが、実は死んだ四人には大きな秘密があった・・・。

 この小説、事件の設定だけでも複雑で奥深くて興味深いのだが、それ以上に面白いのがその書き方。ミステリー作家というのがどのように作品を作り上げるのかは知らないが、一つの事件、登場人物や背景、動機やトリックを考えたとして、それをどのような書き方で小説にするのかについてもやはり悩み工夫をするのだろう。『理由』で宮部みゆきが選んだ書き方は「ドキュメンタリー」。冒頭の引用の通り、この事件にも多くの関係者がいる。事件を基点とした放射線の先に居るたくさんの関係者が次つぎと登場し、彼らと事件との関わり、彼ら自身のこと、彼らの家族のことを語る。読者の前にはドキュメンタリー作家が情報を集めインタビューをして事件の全体を検証するように、一つずつ情報が蓄積されていく。最後にはこの事件の全貌がすべて明らかになるのだが、この物語にはいわゆる主人公はいない。あえて言うならば、事件に関係する全ての人がそれぞれの立場で主人公なのだろう。

 前述の手法で書かれているため、登場人物がやたらと多く、ともすれば散漫になってしまいそうなのだが、随所で警察の捜査の進み具合やそれに対するマスコミの対応が語られ、読者は今自分がどこにいるのかを見失わずにすむ。また、著者ならではの家族観、女性観が控えめではあるがしっかりと語られているのも宮部作品ならではだ。新潮文庫で厚さが約2cm。しっかりとした読みごたえ、味わい深い一冊だ。いつか登場人物とその家族をマインドマップ形式にでもまとめながら丁寧に再読してみたい。

理由 (新潮文庫)
作者: 宮部 みゆき
メーカー/出版社: 新潮社
ジャンル: 和書