新場古鎮

晩秋の休日、地下鉄とバスを乗り継いで、上海市浦東新区の新场古镇(新場古鎮)に行ってきた。古镇とは古い町並みを残したエリアで、市民のちょっとした観光地になっている。
11時過ぎに到着すると、好天に誘われた大勢の観光客で賑わっていた。最初に向かったのはいつも行列のできている小吃店、周りがうるさくて難儀したけれど、豆腐花を注文、鶏のだしとごま油の香りのスープに入った豆腐がしみじみ美味しい。
次に向かったのはいつものシュウマイ店。タケノコと豚肉の入った大ぶりのシュウマイ、蒸したての熱々を酢を付けていただく、旨い!
腹ごしらえを終えて、石畳の道をぶらぶら南へ進む。ちまき、ドライフルーツ、漬物に塩漬け肉など、食べ物を売る店が多い。旬の上海蟹を売るお店もあれば、そこかしこの道端には今朝採れた野菜や果物を売るお婆ちゃん達。竹籠や木彫品を売る店や骨董品屋、土産物の瓢箪屋さんは赤い紐が鮮やかだ。道行く人はみな手に手にお土産の入った袋を下げて楽しそう、買い物も楽しいんだろうね。狭い道の右側と左側から客寄せの大声が賑やかなのも古镇ならではだ。
古镇の一番南まで来ると、さすがに観光客は少ない。南山古寺というお寺を参拝。仏像の前にひざまづいて、深く頭を下げて参拝するのが中国スタイル。ここでも熱心に祈る人が何人かいた。
来た道を再びぶらぶら戻るとさっきより人が増えてる。秋晴れの日差しが少々暑く、ソフトクリーム食べてる人多し。自分は海棠糕という甘いお菓子を食べる。焦げた砂糖と中のこし餡がほんのり甘い。店のおばちゃんが「あんたどこの人だ?」「美味しいか?」「豆腐や麺もあるぞ!」と商売熱心なのだが、あいにくお腹はいっぱいだ。
上海市内に古镇はたくさんある。市内中心に近い七宝老街、小籠包発祥の地といわれる南翔古镇、有名な朱家角などなど、これまで10箇所以上訪れたけれど、ここ新场古镇が一番気に入っている。昔ながらの雰囲気と、観光地としてのインフラ整備のバランスが良いからなのだと思う。ただ古い街があるだけで、飲食店やトイレが少ないと文句を言うくせに、あまりにも立派な観光地になってしまうとシラケるという、何ともワガママな自分にとって丁度よいのだ。広すぎなくて1日で全部見られるサイズも良いし、近所の農家のお婆ちゃんが野菜を売ってるのも素敵だ。いつ来てもとても心地良く、今日で4回目の訪問となった。
新场古镇でいつも最後に立ち寄るのが”泊岸空間”という小さな珈琲店。古い建物を少しリノベーションした店内がとても落ち着く。ここに来るのも4回目、お店のお姉さんとも顔見知りだ。良い香りの珈琲をいただいて一息。また来たいな、来られるかな・・・?今日も良い一日になった。

豆腐花、焼売、上海蟹、ミカン売るおばあちゃん、瓢箪、南山古寺、海棠糕、泊岸空間の珈琲
雲崗石窟

9月の週末、山西省大同市の雲崗石窟(云冈石窟)を訪ねた。一年前の国慶節に大同と洛陽を旅行したとき、新型コロナウイルス対策で観光地が軒並み営業停止で入ることができなかったため、今回はリベンジツアーだ。前日に大同入りし車で石窟へ向かう。朝の開門を待つ入り口には多くの旅行客、ただの週末なのにさすがは世界遺産だ。好天に恵まれ、絶好の石窟日和だ。
綺麗に整備された道を進み、新しく建てられたお寺を過ぎしばらく歩くと石窟エリアが始まる。小高い山の崖一直線に石窟が並ぶ姿は敦煌莫高窟や洛陽の龍門石窟ととても似ている。ここ雲崗石窟は北魏時代の460年から洛陽に都が移るまでの間、約20年かけて作られた50以上の石窟が約1kmに渡り続いている。石窟のある岩山は砂岩でできており、中には同様に岩山を彫って作られた石仏がある。龍門石窟同様、むき出しの小さな石窟は風化が激しいが、深く横穴を彫って作られた大きな石窟では中央の仏像はもちろん、壁や柱、天井の隅々まで掘られたレリーフが残っており、そこに施された彩色も鮮やかだ。見学客は多いため、混み合う石窟では係員のおっちゃんが拡声器で「走走走!!(進め進め進め)」とやかましい。厳かさなど皆無、中国観光地ではよく有ることだ。

第12窟はここ雲崗石窟で最も芸術的で「音楽窟」とも呼ばれているそうだ。壁面のあちこちに琵琶や琴、笙、横笛や鼓など44種の楽器を奏でる姿のレリーフが彫られ、北魏時代の音楽や舞踏の研究者にとって貴重な資料なのだそうだ。少しデフォルメされふくよかな体つきの楽師さん(?)達の姿が可愛らしく、見ているだけで楽しくなった。
石窟群の中央少し奥に第20窟の大きな石仏がある。ごく初期に作られた高さ13.7mの坐像はガイドブックや旅行動画で必ず登場する雲崗石窟のシンボル的存在だ。見上げる人多数、記念撮影のベストスポットだ。この第20窟、元々は敦煌の第96窟のように外側を覆う建物が作られていたのだが、これが900年前の地震で倒壊してむき出しになったため、有名になったのだそうだ。観光資源として売り出すためにも、中心となるモニュメントは重要だ。歴史的、学術的な価値も高かろう第20窟、覆いが取れたことで図らずも雲崗石窟の顔としての役割まで授かった。人生(?)何が幸いするかわからないものだ。
上海に住んでもうすぐ4年、今回の旅で中国四大石窟と呼ばれる敦煌の莫高窟,大同の雲崗石窟(云冈石窟),洛陽の龍門石窟(龙门石窟),天水の麦積山石窟(麦积山石窟)をすべて巡ることができた。三大石窟に行ったという人は多いが、麦積山石窟を加えた四大石窟を回った日本人はそう多くはないだろうと、少しマウント取った気分(笑)。上海で知り合った日本人友達が石窟好きで誘ってくれたのがきっかけだが、元々歴史や遺跡が好きなことと相まって、楽しくコンプリートさせてもらった。人との縁の為せる技だ、本当にありがたい。どの石窟も素晴らしく、それぞれに味わいが異なって思い出深いが、共通して思うことは、歴史と仏教美術、そして仏教そのものについてもう少し知識があれば、もっともっと面白いだろうに・・・という事だ。「○○時代の特徴がこのあたりに出てるね」「お釈迦様の○○○の教えが見事に描かれてるな」「こんなに△△な○○菩薩像は初めてだ」などと、感動の質も量も違ってくるだろう。もちろんそんな知識無しでも十分楽しめて感動できているのだが、ガイドさんが歴史や仏像について解説をしてくれた時、基礎となる知識が非常に薄っぺらなため「ふーん、そうなんだ」としか思えない事が悔しい。逆にそのあたりの知識豊富な人から見れば、猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏・・・。殴りたくなる程もったいなく罰当たりな奴なのだろう、本当に申し訳ない。

敦煌莫高窟

5月の労働節休暇に、敦煌の莫高窟に行ってきた。シルクロードのオアシスとして古くから栄えた敦煌は、中国甘粛省の西端にあり、現在の人口は13万人。井上靖の小説や映画は言うまでもなく、シルクロード関連のドキュメンタリー番組では必ずと言って良いほど紹介されるので、自分も昔から一度行ってみたいと思っていた。念願叶い敦煌を旅するにあたって、井上靖の「敦煌」を読み返したことは言うまでもない。
莫高窟へは市の中心から南東へ25km、車で30分くらいの行程だ。到着後、まずは曲線が美しいアースカラーの建物に入り、映像で莫高窟の歴史を紹介される。部屋を移りドーム型の大きなスクリーンで石窟内部を精細な映像で紹介される。どちらもヘッドホンガイドで日本語解説が聞けるのだが、前半は映像と日本語音声とのズレが大きく、後半はリクライニングシートの座り心地が良過ぎて寝落ちしてしまい、共にあまり記憶に残っていない。前夜は白酒を飲みすぎた、実にもったいない。その後シャトルバスで移動すると、いよいよ世界遺産の莫高窟だ。
莫高窟は、何人かのグループで学芸員さんに引率されて見学する。好き勝手にあっちこっちウロウロできない決まりだ。日本人8人のグループを案内してくれたのは王さんという学芸員。日本語が堪能で誠実そう。えんじ色のユニフォームの似合うスレンダーな美人だ。
最初に案内されたのは盛唐の時代に掘られた第23窟。扉を開けると、まず小さな前室が有り、その奥に主室がある。以前訪れた龍門石窟(龙门石窟)や麦積山石窟(麦积山石窟)には前室が無く、外から仏像を拝めるオープンな様式だったのとは違って、奥ゆきが深い。おそらくこの違いが幸いして、壁画の色彩が残ったのだろう。前室の奥にある正方形の主室の壁と天井には隙間なく壁画が描かれ、正面奥に作られたステージのような空間に5体の仏像が並んでいる。敦煌の仏像は石から彫り出した彫像ではなく、粘土で作った塑像に彩色を施したものだ。この部屋の仏像は清の時代に修復されたものと聞くと有り難みが薄れてしまうが、仏像をとりまく額縁に描かれた草花模様の青みがかった緑色がとても綺麗で印象的だった。
次に案内された17番窟は唐代末期に作られた小さな部屋だった。16番窟の前室から主室へ続く短い通路の右側に掘られており、四畳半ほどの正方形の部屋に1体の塑像が置かれ、その背面に人物像が描かれている。他の壁面や天井に壁画はなく、先の23窟の全面総壁画と比べると、著しく地味でガランとした印象だ。しかし、この第17窟の入り口は以前塗り固められていて、西暦1900年に地元の僧侶により偶然発見された時、この中には4世紀から11世紀頃の経典や仏画、様々な古文書などが5万点も入っていた、有名な敦煌文書だ。これら貴重な資料の多くは当時の列強であるイギリス、フランス、ロシア、そして日本により持ち去られ、世界に散逸してしまったのは悲しい歴史だ。それにしても、一体誰が、何のためここに隠したのかは未だ解らない歴史の謎であり、その謎が井上靖に小説「敦煌」を書かせたわけだ。ガランとした、飾り気のない四畳半を眺めながら、小説家の想像力というのは凄まじいものなのだなと思った。
この後、第328、427、428、237窟を巡り、最後に敦煌莫高窟のシンボルとも言える朱色の屋根9層の楼閣の中にある、第96窟を見学。巨大な足が目の前にあり、上を見上げると、はるか高いところに弥勒菩薩様の鼻の穴が見えた。35.5m、世界No.3の高さなのだそうだ。
石窟内部は照明が一切無い。壁画や仏像を保護するためだろう。前室経由で入ってくる外の光はとても弱く、正面の仏像をぼんやり照らすぐらいで、左右の壁は真っ暗で全く見えない。学芸員の王さんは、懐中電灯で壁画の一部を照らしながら解説してくれ、その一つ一つは素晴らしいのだが、全体像を味わうことはできなかった。木を見て森を見ず、いや葉っぱが見えるけど木さえも見えない状態だ。文化財の保存と観光資源としての活用の両立は、なるほど難しい問題だ。それを補うのが最初に見た精細な映像による紹介なのだろう。返す返す残念だが、やはりそれは撮影された映像だと嘯く。
はるか昔、完成後間もない石窟に入った人は、一体どんな気持ちになったのだろう。前室に足を踏み入れると外の喧噪が小さくなり、空気は幾分ひんやりする。目がなれた頃、細い通路に響く自分の足音を聴きながら主室に入ると、正面の仏像が目に飛び込んでくる。鮮やかに彩られた仏像に圧倒されながら、四方の壁を見回し天井を見上げると、隙間無く描かれた極彩色の壁画が松明の明かりに照らされゆらゆらと迫ってくる。天上世界とはこのような所かと、溜息をつきながら手を合わせたのだろうな。羨ましい限りだ。
敦煌では有名な鳴沙山と月牙泉、玉門関、陽関のろし台、雅丹地質公園なども訪れた。砂丘でラクダに乗ったのは楽しい思い出だ。

麦積山石窟

旧正月の休みを利用して、甘粛省の天水市に行ってきた。天水市は西安から西へ新幹線で1時間半、秦の始皇帝の出身地で、古くは秦州と呼ばれていたそうだ。今回の旅の目的地、麦積山石窟(麦积山石窟)は市の南東の山間にある。高さ142mの麦積山は、その姿が麦わらを積み上げた様子に似ているためこう呼ばれるそうだ。百度百科によると221の石窟、1万632の塑像、1,300㎡以上の壁画が残っているらしい。掘られ始めたのは4-5世紀頃、1600年以上の昔だ。
この日の天水市の最低気温は-7度。ダウンとカイロ、手袋に耳あての防寒装備だが、やはり寒い。マスクの中で吐息が結露してベチョベチョになるのには閉口した。麓の駐車場から坂道を登っていくと、左手に麦積山が見えてきた。垂直に切り立った赤茶色の山肌に、大きな仏像といくつもの石窟、そして石窟をめぐる通路が壁面に張り巡らされているのが見てとれる。去年の秋に行った龍門石窟(龙门石窟)と懸空寺(悬空寺)とを合体させたような景観だ。分かっていたけれど実物を目にするとやはり迫力がある。
門を抜けしばらく歩くと山の壁面に突き当たる。遠くから見た通り垂直の壁だ。階段を上がると壁沿いに通路が作られている。幅は1mちょっと位で人二人がすれ違うのには十分な広さだが、反対側の手すりの向こうは地上まで何も遮るものがない。通路のできるだけ山側を歩くようにして、石窟の中の仏像やレリーフ、壁画を見学する。麦積山石窟の仏像は石を彫った石像ではなく、粘土でできた塑像だ。経年劣化や地震のため、手や指先の破損は見受けられたが、首や胴体は昔のままの姿をとどめているものが多い。仏像や背景、天井画の彩色も数多く残っている。第44石窟の釈迦像は西魏の乙弗皇后がモデルと言われ、華奢な体つきと柔和な顔、そして衣服に残った美しい青緑色が素晴らしく、印象的だった。
麦積山石窟は山奥にあることが幸いして、中国に侵攻した海外列強によって仏像や壁画などを持ち去られることが無かったそうだ。洛陽市の龍門石窟で、主のいない空っぽの石窟や、首のない仏像を見た時の悲しさを思い出した。歴史を作るのも人間、壊すのも人間。悠久の時を経て出会えた偶然に感謝!

龍門石窟

10月の連休、河南省の洛陽(洛阳)に行ってきた。洛陽は「九朝の古都」と呼ばれ、古くから多くの王朝がここに都を置いた歴史ある町だ。
雨降る中、市の中心から車で30分程、龍門石窟(龙门石窟)に到着した。南北に流れる伊河沿い、ほぼ垂直に切り立った石灰岩の山肌に、長方形や正方形、上がアーチ状になった縦長かまぼこ型などをした穴が隙間なく並び、その長さは1キロに渡る。石窟の奥行きは数十センチから数m程で、奥に仏像が彫ってある。また、左右の壁や天井にも仏像やさまざまなレリーフが彫ってある。一番小さな仏様はわずか2cmで、壁面の高い所にあるため、肉眼では点にしか見えない。まぁよくぞこれだけ彫ったものだと、その労力と彫り続けた意思に敬服する。
石窟のほぼ中央に巨大な大仏群がある。センターの廬舎那仏は、寄進者である唐代の女帝、則天武后の顔を模したと伝えられているが、確かに女性的な面持ちだ。廬舎那仏の高さは約17m、東大寺の大仏様より少し大きい。石段を上がり、そばに寄って見上げると圧巻で、その迫力に圧倒される。
龍門石窟は北魏の都が大同から洛阳に移された5世紀末から作られ始めた。当時、仏像を作ること=功徳を積むこと、とみなされたため、時の王や権力者、財を成した人たちはこぞってお金を出し、ここに仏を彫らせたそうだ。これを聞くまで自分は、僧侶が修行の一環として、一人孤独に一刀一刀お経を唱えながら彫ったと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。ひょっとしたら、場所と石工とをコーディネートして”分譲”する業者がいて「今でしたら、この区画がお安く提供できますョ」などと商売していたのかも・・などと想像する。
中国では古来、道教、儒教、仏教がメジャーな宗教として信仰を集めてきたが、歴史の中でトップが国教を変更するのに伴い、以前の宗教施設を破壊することがあったという。そのため、ここ龍門石窟でも多くの仏像の顔が潰されている。また、幸い破壊を免れた、状態の良い仏像は、清朝の時代に海外列強によって持ち出され、今でも世界各地の博物館に展示されているそうだ。中に仏さまのいない空っぽの石窟がとても多く、悲しい気持ちになった。
先に訪れた大同市の観光地が新型コロナの影響で軒並み封鎖されたため、予定を変更。洛陽では、中国で最初に仏教が伝わった白馬寺、映画で有名になった少林寺、三国志のヒーロー関羽のお墓など、沢山の見どころを巡ることができた。

懸空寺

10月の連休、山西省の最北部、内蒙古に接する大同市に行ってきた。市民の1/3が石炭関連という石炭の街だが、北魏の時代は都として栄えた歴史ある町だ。その大同市の郊外にある悬空寺というお寺に行ってきた。市の中心部から車で1時間、このあたりは砂漠性の気候なためか、岩山の所々に低い木がポツポツ生えた景色が珍しい。あいにくの曇天のため荒涼とした雰囲気が際立つ。
両側を切り立った岩山の崖に挟まれた川沿いにある駐車場で車を降りて数分歩く。山門のようなものは無く、あまり多くない土産物屋の間を抜けた先、川をはさんだ反対側右手前方の崖に悬空寺が見える。岩肌と一体化した悬空寺は、周りの自然が雄大すぎて、小さく見える。
橋を渡り階段を上がる。岩肌のすぐ脇、黒い石の門の赤く塗られた小さな扉が入り口。2人がギリギリすれ違えるサイズだ。梯子のような狭くて急な階段を昇り、細い通路を通って全部で40ある小さな部屋を巡る。通路は全て建物の外側にあり、古い旅館の縁側のよう。この日は観光客が少なめで、中国人ばかりだったけれど、大柄で太った欧米からの団体客はさぞかし苦労することだろうなと心配になる。このお寺は道教と儒教と仏教のお寺。そんな事アリなんだと驚いたが、向かって右側最上階の部屋が三教殿と呼ばれ、老子・孔子・釈迦の像が並び祀られていた。スゴイ眺めだ。
悬空寺が建てられたのは5世紀末。下に石垣が無い部分はどうしたのかというと、垂直に切り立った崖に四角い深い穴をいくつも掘って、そこに木の棒を差し込む。その棒の上に板を渡して床を作り、壁や屋根を作っていったのだそうだ。川底からは高く増水で流されることはなく、山間にあるので紫外線の影響も少ない。乾燥した気候も幸いし、現代に残った。修繕修復もしているだろうけれど、1500年前の技術に驚く。
大同では云冈石窟、雁门关、大同土林などの名所を巡る予定だったが、新型コロナの影響で何とこの日から封鎖。旅程の変更を余儀なくされてしまった。いつかまた来てリベンジすると心に誓った。

ハルビン散策

2年前から取引の始まったお客さん、コロナの影響で遅くなってしまったが、やっと訪問することができた。中国の最も北にある黒龍江省の省都、ハルビン(哈尔滨)市までは上海から国内線で3時間、1日目に商談を行い、翌日は先方のご好意で市内を案内してもらった。19世紀末、シベリア鉄道につながる東清鉄道建設のため発展したハルビンには、今もロシア風の建物が残る。その代表と言えるのが、聖ソフィア大聖堂(圣索菲亚大教堂)だ。
帝政ロシアの従軍教会だった聖ソフィア教会が、1923年に現在の位置に再建され、1932年11月に完成したそうだ。高さ53.35m、赤レンガの外壁にビザンチン様式の玉ねぎドームが印象的だ。
中には、高いドーム天井から吊り下げられたシャンデリアが4つ。壁には幾つもの絵画が飾られている。内装は昔のまま手を加えていないようだ。壁の漆喰があちこちで剥がれ落ちていて、歴史を感じさせる。以前祭壇があったであろう場所に十字架は無く、代わりにグランドピアノが一台鎮座していた。2020年からこの建物はコンサートホール(索菲亚音乐厅)として、活躍しているらしい。今はもう祈りの場で無くなった聖堂だが、市民の憩いの場として、観光資源として活躍している。

聖ソフィア大聖堂から少し離れたところにある中央大街步行街は、当時の面影を残す町並みだ。100年前に敷かれた石畳の道と街路樹が美しい。この日案内してくれた取引先の扬さんによると、この敷石一つひとつに、当時のお金で1ドルかかったのだそうだ。
道の両側には、当時から残るロシア風の建築が並ぶ。レストラン、デパート、土産物屋、パンや飲み物を売る小さな店などが軒を連ね、大勢の市民や観光客が休日を楽しんでいた。扬さんに「上海の南京路歩行街のようでしょう」と言われて周りを見回すと、南京路と比べて、道行く人の平均年齢がとても若いことに気が付いた。南京路にはオールド上海を楽しむお爺ちゃんお婆ちゃんが多いのと対照的だ。成る程、デートスポットとして比べると、石畳とその両側にきれいな並木道が続く中央大街は、南京路より格段上だ。
人気の棒付きアイスを食べ歩き、地元老舗のレストランで美味しいハルビン料理をいただいた。案内してくれた扬さんは、ご両親の代でハルビンに移り住み30年以上。お話の端々に地元愛を感じた。休日にも関わらず、1日付き合ってくれて感謝!!
