『月は幽咽のデバイス』


 森博嗣2000年の作品。閑静な住宅街にある大邸宅、10人の男女が集ったパーティーの最中に起こった惨劇。皆の歓談する居間のすぐ隣にあるオーディオルームで、参加者の一人が血まみれの姿で発見された。目撃者はおらず、現場は密室と思われる。事件の発覚した時点で10名の内2人はすでに会場を後にしており、後から3人がやってきた。パーティー参加者の一人、名家の令嬢であり自称科学者の瀬在丸紅子(せざいまる・べにこ)が謎を解く、Vシリーズの3作目。

 住宅街にありながら孤立した豪邸、そこに集うお金持ち、名家の令嬢、安アパート暮らしの大学生と、登場人物の設定には何か昭和の匂いがするけれど、一ひねりしてあるのが面白い。名家の令嬢、瀬在丸紅子はシングルマザーで名家は没落している。捜査にあたる県警の刑事は彼女の元夫で、部下の女刑事にも彼の子供がいる(なんちゅう奴だ)。貧乏学生の一人は女装が趣味ときた。よく考え付くものだ。

 瀬在丸紅子のキャラクターも気に入った。育ちの良さがにじみ出る上品な言葉遣いに隠された明晰な頭脳。基本的に相手思いで心優しいのだが、お嬢様的わがままぶりも十二分に発揮する。印象的なセリフを一つ。「そうかしら・・・。新しい情報だけで、新しい発想があるなんて、思えないわね。情報は思考を限定するだけです」情報が集まってくれば、もう少し詳しい議論ができるようになると言う刑事に対しあっさり言ってのける。現場に居合わせ、基本情報が頭に入っているとはいえ、民間人からこんな事言われたら、刑事としてはさぞかし頭にくるだろう。

 先のセリフで思い出したことがある。ビジネスの場で、さぁここは当社としてどうするべきか、と判断に悩むことがある。部下は悩み困って上司に相談を持ちかけるのだが、上司は部下からの状況説明をざっと聞いただけであっさり答えを出す。「こうすれば良いだろう」。それは部下も当然考えていたことなのだが、アレコレ直近の状況を踏まえるとそうもいかない。「しかし現在は、あぁであって、こうであって・・・・」と更なる情報を加えるのだが「元々A社の立場はこうで、B社はこれを求めてる。ウチの立場はこうなのだから、コレしかないだろう」「・・・確かにそうですね・・・」多くの場合それは部下とってできれば避けたい選択肢。あれこれ情報を多く集めて、他の方法はないかと暗中模索してしまうのだろう。しかし本筋は何も変らないのだ。そんな場面、よくある気がする。

 ところでこの瀬在丸という苗字は始めて目にした。どうでも良いのだが、本当にあるのかどうか「日本の姓の全国順位データベース」というホームページで検索してみた。全国の電話帳を元にしたデータベースで、苗字を入力すると全国に何件あって、多い順のランキングを教えてくれるのだ。果たして瀬在丸という苗字は実在していて、全国で37件、25,890番目に多い苗字なのだそうだ。全くどうでも良いことだ。

 いつも本やCDを貸してくれる勤め先の後輩、I君が貸してくれた一冊。10月に読んだ『阪急電車』以来だが、今回も楽しませてもらった。

月は幽咽のデバイス (講談社文庫)
作者: 森博嗣
メーカー/出版社: 講談社
発売日: 2003/03/14
ジャンル: 和書