三休橋筋ぶらぶら

 日曜の昼下がり、陽光に誘われてぶらり出かけた。日々の通勤ではすし詰めの地下鉄御堂筋線も休日はのんびりムード。淀屋橋駅で降りて地上に出ると、風はまだ少し冷たいが早春の日差しは暖かだった。 土佐堀川の南岸を東へ進むと左手に大阪市中央公会堂の赤煉瓦が見えてくる。北浜二丁目の角を南へ折れると三休橋筋、今日はこの道をブラブラ歩こうとやってきたのだ。



 大阪では東西の道を「通(とおり)」と呼び、南北の道を「筋(すじ)」と呼ぶ。西から順になにわ筋四ツ橋筋、御堂筋、堺筋松屋町筋谷町筋となる。地下鉄の通る御堂筋と堺筋の間にあるのが三休橋筋。その名の由来である三休橋長堀川にかかっていたのだが、川の埋め立てに伴って今はもうない。船場の中央を南北に貫く三休橋筋には大大阪時代を偲ばせるレトロな建物がいくつも残っている。


 南に向かって歩き最初の角を右に曲がると適塾がある。幕末の蘭学者緒方洪庵が大坂船場に開いた私塾、重要文化財に指定されている。最初はここより南の瓦町にあった適塾がここに移転したのが1845年。明治初年に閉鎖になったというからその間23年。明治維新以降、日本の近代化に貢献した塾生たちの中には福沢諭吉もその名を連ねる。畳の敷かれた大広間には日本各地からやってきた当時の俊才たちの青雲の志が今も宿っているようだった。


 適塾と同じブロック南側に大阪市立愛珠幼稚園がある。見事な武家屋敷は1880年明治13年)に開園したという幼稚園で、現役の幼稚園としては日本最古なのだそうだ。休日ゆえに子供達の姿は見えないが、卒園生たちはここで学んだことを誇りに思うのだろうなぁ。


 三休橋を南に2ブロック、高麗橋通との交差点にあるのが1912年(明治45年)の洋館。赤煉瓦に白い石のラインが美しい。ガラス窓の外に据えつけられた鉄の扉が重厚だ。設計したのは辰野金吾という人で、大阪市中央公会堂や東京駅もこの人の作品なのだそうだ。当時は保険会社の社屋だったこの建物、今では”オペラ・ドメーヌ高麗橋”という結婚式場として使われている。


 オペラ・ドメーヌ高麗橋の南隣にあるのが日本基督教団浪花教会。石造りの重厚な建物にステンドグラスの窓。1930年(昭和5年)の教会を背景に、昔風のドレスを身にまとい日傘を差したモデルさんとカメラマンが撮影をしていた。


 その向いには淀屋橋アップルタワーレジデンス。2007年竣工、地上46階の高層マンションがそびえ立つ。


 オフィスや飲食店の並ぶ三休橋筋をさらに南へ、道修町通、平野町通、淡路町通、瓦町通をこえると左手に重厚な石造りの建物が見えてくる。1931年(昭和6年)竣工の綿業会館、重要文化財に指定されている。中にはイタリアルネサンス調のホールや会議室、談話室や食堂などがある。以前仕事の関係で中に入ったことがあるのだが、建設当時の贅をつくした調度に感歎したものだった。綿業会館の建設費は東洋紡績専務だった岡常夫氏の遺産100万円に業界から集められた50万円を足した150万円。同じ年に完成した現在の大阪城の建設費が同じく150万円だったそうだ。当時の繊維産業がいかに凄かったかを物語っている。

 オフィス街の真ん中にある三休橋筋。レトロな建造物たちは様式も時代もバラバラだけれど、この事はこの地がはるか昔から現在に至るまで、ずっと商都大阪の中心であることを物語っている。古い建物の中には1995年の阪神淡路大震災で倒壊したり、耐震性に難有りとされて取り壊されたものもあるという。街、建物、そして人。変わるものもあれば変わらず残るものもある。東日本の街を大きく変えた大震災からちょうど1年経ったこの日、歴史の中で移り変わってきた大阪の街に変わらぬ人の営みを感じた。