『ブレードランナー』

 2019年のロサンゼルスを舞台にしたSF映画ブレードランナーとは人間に反旗を翻したロボット「レプリカント」を探し出し、抹殺する特捜班のこと。ハリソン・フォード演じるデッカードは引退した元ブレードランナー。ロサンゼルスの街に紛れ込んだ4人のレプリカントを倒すため呼び戻された。

 1982年公開のこの映画に描かれた未来都市ロサンゼルスは、怪しげな日本語が飛び交うアジア風テイスト。高層ビルの傍ら、路上の屋台で食事をする人々、隠微な酒場、ストリートチルドレン、落書き・・・猥雑で退廃した街として描かれている。この街でデッカードが4人のレプリカントを探して倒す映画なのだが、話はそれほど単純ではない。デッカードが出会うもう一人の美しいレプリカント、レーチェル(ショーン・ヤング)の存在だ。彼女は自分がレプリカントであるとは知らずに生きてきた。幼少の頃の記憶も埋め込まれているため、人間として生まれ育ってきたと信じていたのだ。デッカードの行った簡単なテストで彼女は初めてその事を知り、驚き、逃亡する。

 自分って一体誰なのか、誰でも一度は自分に問いかける。「私って誰」「何のために生きるの?」いわゆる自己同一性というヤツで、青年期の自己形成の過程で誰しも通る道だ。しかし、この映画や『トータル・リコール』、『マトリックス』でもそうだが、記憶が自分の過去の体験の結果ではなく、コンピュータのデータのようにコピーしたり、インストールしたりできるものであったらこの問いの持つ意味は変わってくる。自分の思い出だとばかり思ってきたのだが、実は違うのかもしれない。自分の過去が信じられず、それこそ自分て一体誰なのか、ということになる。コレって想像するとかなり怖いことだ。大林宣彦監督の『転校生』という映画があった。主人公の男女二人の体が入れ替わってしまうお話だ。また、少し前のインテルのCMで、ある朝タカシ君目覚めると女の子になっていた、というのがあった。女の子になっても、彼(彼女)がタカシ君であるのは、タカシ君の記憶が継続されているから。記憶というのはその人がその人である必要条件であり、ある意味十分条件でもある。それが自分でも信じられないとなると、文字通り自己を見失うことになろう。

 4人目のレプリカントとの激しいアクションシーンが続いた後、映画は謎めいたエンディングを迎える。全編を通して見事に作り込まれた未来都市の風景が見事だ。若き日のハリソン・フォードもカッコイイし、一方で倒されていくレプリカント達が背負った哀しみがだんだんと伝わってきて感情移入してしまう。「例のテストだけれど、受けたことある?」レーチェルの言葉が心に焼きつく。何とも深い映画、今でもファンが多いというのもうなづける。

ブレードランナー ファイナル・カット [DVD]

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